もくじ
私とはどんな人物であるのか。
知らないよりも知っている方が親近感湧くかな?と思い、ちょっとプロフィールのところに詳しくはこちら。みたいなのにリンクを貼れるようなプロフィールを書いてみたいと思います。
少し(いや、もしかしたら大分?かなり?)一般家庭とは違うのですが、ありのままに書いてみようと思います。
教授と生徒の娘
私は、大学の教授をしていた父と、その大学の生徒だった母から産まれました。年の差は約30歳程。母の父、私の祖父よりも父は年上だったと思います。母にとっては初婚、父にとっては2回目の結婚でした。父の初めての結婚の時には2人の間には子供は居らず。詳しくは知りませんが、とにかく母が父の目を輝かせながら話す講義に魅了されて恋に落ち、そして卒業後結婚したそうな。
2つ上の姉が居る
私の前に、早生まれで2学年違う姉がいます。
が、若い母にとって小さい子どもが2人いる状況は大変だったと思います。数枚写真が残っているけれど、そこにはやばいとしか言えない家の乱雑ぶりと天真爛漫にこれまたやばいことをしでかしまくっているであろう私の小さい頃の写真が写っていました。
母、失踪。
そして、私が3歳か4歳の頃に母は失踪します。私の記憶には母はありません。あるのは姉と2人でアパートにいる時の記憶だけ。保育園を嫌がる私を無理に入れても、と保育園に行かすのをやめ、教授をする傍ら、お昼には帰ってお昼ご飯などを食べさせてくれていたらしいです。
姉、錯乱。
私は母の記憶は全くないのですが、姉は母のことが大好きで、よく覚えていたようで、母が失踪してから、探して探して探しまくり、泣きまくり、錯乱状態になったそうです。そして最後には「母は死んだ」と思うことで気持ちを落ちつかせたそうです。そしてそんな悲しむ自分と自分に頼る天真爛漫な妹(私)。留守がちな父。姉の心は癒されないまま過ぎて行きます。
父、教授を辞める。子どもを連れてど田舎へ引っ越し。
父は、定年まで待たずに教授を辞め、私たちを連れて田舎の中でも田舎、同じ街の人たちからも「山」と呼ばれるものすごく山奥へ引っ越しします。引っ越しした日は姉の小学校入学式の前日。姉は入学式当日から行きたくない!と登校拒否を始めます。それでも学校の先生や周りのお姉さんたちが毎日家にやって来てくれて少しずつ小学校へ行けるようになりました。私は引っ越しして来た1年間は家にずっと居て、そして最後の1年間の年長時代だけ保育園に行きました。
母、出禁になる
母は時々家に来ていたようですが、その度に「死んだはず」の母と出会い、喜び、そして居なくなって錯乱するということが姉にはあり、家に来ることはやめてほしいと言われその後家に来ることはなくなりました。
何故かすぐ別れが来る幼少時代。
保育園で1人だけとっても仲良くなった子がいたのだけど、その子は小学校は違うところに行くことになり、お別れしました。
(その子とは長い間文通しました。)
私にはまた新しくお友だちを作るミッションが出来ました。
そして小学校に入学するときに引っ越して来た子がいて、その子ととっても仲良くなったのだけど、その子も小学2年生の時に引っ越して行ってしまい、また新しくお友だちを作らないといけなくなりました。(この子とも長く文通しました。)
しかし小学3年生になると、周りはグループが出来ていて、その中に入っていくには色々とありました。小さい小学校だったのだけど、それでも仲間外れや、いじわるなど色々とありました。私はそういうのは性に合わず、仲間外れとかするグループには入りたくなかったし、かといって心が許せるような友だちにもなかなか出会えませんでした。
姉に、嫌われる
姉の妹嫌いは続き、「お姉ちゃん」と言われるのを嫌がっていました。なので私は「◯◯◯ちゃん」と姉のことを呼んでいました。外では結構人気者の姉でしたが、全ての感情を隠して人付き合いをし続けていたみたいでかなり家ではササクレていました。私は姉に構ってほしくてしょっちゅうちょっかいを出しにいってましたが、全然構ってくれません。アナ雪の関係を想像してもらったらピッタリかなと思います。
継母、出来る
実はこの方は母よりもずっと以前からの父の知り合いで、2人の息子を立派に育てあげた方なんですが、この方の元ご主人と出会うより前に父と出会い、継母は父に恋心を抱いていたそうで、本当に何十年来の親交があった仲のようなのですが、母が居なくなり、継母が週に何回かこのど田舎に来てくれるようになりました。
継母は裁縫、料理などが得意で、本当に美味しい料理をたくさん食べさせていただき、それが今の私の料理の原点になっています。ただ、継母を怒らすと怖かったです。まるで雰囲気も口調も全てが細木数子。お説教しだすと2時間ほどお説教してたりして長いのなんの。でもたくさんの愛情をくれた人でした。
姉、引きこもる
小学校は何とか行ってましたが、家では完全に引きこもっていました。夕食も出されたもの以外の大きいお皿に乗ったものなんかには手を出しませんでした。逆に私は食いしん坊だったので、もぐもぐ食べていました。また、私は継母の後ろに立って毎日お手伝いをしていました。継母の怒りスイッチは結構突然入るので、それを入れないようにうまく立ち回る技をそこで身につけたと思います。「私の右腕」と言ってもらっていました。姉は相変わらず全然出て来ませんでした。
テクニトーンを習う
小学5年生になり、同級生の家にテクニトーンの先生が来られるから習いにおいでと言っていただき、テクニトーンを習い始めました。これまで貧乏生活していたはずが、「テクニトーンが欲しい」という一声に何と60万円もするテクニトーンを買ってくれたのです。それから私はテクニトーンを弾くことに夢中になりました。
今までなかなか表現できなかった自分の気持ちを思いっきり出せることにかなり開放感を感じていました。
父、ヨガの先生と算数、英語の塾の先生をはじめる
学校の近くの公民館で、父がヨガと算数、英語を教え始めました。私と姉は算数と英語の塾の第1号、2号の生徒になりました。父の話は面白く、でも父なので変に真面目になれずにおちゃらけていました。そこで英検4級を取りました。
そろばんをはじめる
テクニトーンにはまっていたのですが、そのテクニトーンをさせてくれている家の子が、これまた学校の近くのそろばん教室に行っていることを知り、私も1年だけ習いました。そろばんはやっていて良かった!と思える習い事です。
他にもその子がやっていた習字も習いました。田舎だけど、色々あったのがありがたかったな〜と今振り返りながら思うのでした。
テクニトーンの先生との別れ
テクニトーンにあれだけ熱中出来たのも、先生のお陰でした。
でもその先生も辞めて居なくなってしまいます。その時に私は「またか。。。」と思いました。
深い関係を築くの怖い症候群
どれだけ仲良くなってもいつかは別れが来る。無常こそが常だ、と思うようになりました。
深い関係を作って傷つくくらいなら、深い関係になんてなりたくない。
そう思うと何もかもがとても色あせて見えました。
なんだか自分が不幸な人間のように思えて来ました。
しかも顔があまりにも塩顔で目立たなくて、居ても居なくても同じで、私は何のために存在しているのだろう、と思うようになりました。
ある番組を見て、気持ちを切り替える
ある日、テレビの特番で、日々の食べ物に困り痩せてお腹だけがぷっくりしているアフリカの小さな子供たちの番組を見ました。その時、私はそれを見ながら、自分が井の中の蛙であることに気がつきました。私が今こうしてベッドで寝られていること、ご飯を食べていられること、寒い思いをしていないこと、それだけでもうすでに何万、何億人よりもずっとずっと幸せなポジションにすでにいるのに、そんな私が不幸だなんて思ってるなんておこがましい!そう思えて来ました。
世界を見よう、私は幸せだ!
自分を幸せに出来るのは自分でしかない、そう確信してから今日まで私は自分は幸せであると思いながら生きています。
これが私の産まれてから小学校卒業までの話です。^_^
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