看護学校へ。そして受験日が父の通夜に。

生い立ち

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ここからは子持ち(1歳半)で看護学校に行った話から始まります。

主人のサポートゼロ。

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気になるところだと思いますが、我が家は主人のサポートはありません。むしろ主人へのサポートがかなり疲れました。

起きない主人を起こすこと、早く出社するのに合わせてお弁当を作ること、よく食べる主人の為にご飯をつくること、などなど。

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当時のご飯です。お金をかけない作り置きおかずを作りながらの生活。

とにかく主人がよく食べる人でした。

そんな中で始まった子持ちの看護学生は、もう二度とやり直したくない大変なものでした。

看護学校では卒業まで学業はほぼずっと1位。ただ実習はボロボロ。

看護学校は午後からでした。

私はこれで少しでも長く長女との時間が持てる!と朝10時ごろに登園していました。しかし、保育園的には9時には登園してほしいと言われ、8時半には家を出るのでゆっくり子供といるということはあまり出来なくなりました。その代わり、子どもがいる時は勉強はしないでおこう!と決めました。

ほかの生徒たちは午前中に病院で働いている子も多くいましたが、私はリストラされた関係で、普通よりも何ヶ月か多く給料が自動的に入っていました。まずは3月までは100パーセントの給料が入り、そこから半年間は雇用保険でしっかり出たので、働く必要性を感じませんでした。それよりも空いた時間を子どもと過ごしたかったです。

その後は私の収入がゼロであるにも関わらず、看護学校へのお金はかかり、さらに長女の保育園代が5万円超えでかかり、折角貯めた100万円はあっという間になくなり、日々の生活に困りながらの毎日になってしまいました。

子どもの前では勉強しないと決めた私の勉強方法は、ほとんど座学ではありませんでした。教科書の読み込みはしっかりして、教科書に書かれている分からない単語は携帯のウィキペディアで調べて横にその意味を書くことはしましたが、後は洗濯しながら、干しながら、ご飯作りながら頭の中で自分で問題を作って答える形式で勉強していました。

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自分でも驚いたのですが、自分は記憶力が優れているようで、一度納得した事柄に関してはあまり忘れずにいれました。お陰でかなり長い文章も簡単に覚えられ、しかも忘れないので、テストでかなり役に立ちました。

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こちら、実際に私がテストで解答したものです。今の自分からは考えられません。グッジョブ!

ただ、実習は、実習先の指導者からはそんなに悪い点数はつけられていなかったのですが、学校の先生からはかなり!!厳しい点数をつけられていました。ほぼ一度も実習の様子を見に来たことはなかったけれど、平均して同じような点数になるように調整しているといわれていました。そして恐怖の悪夢の「振り返り」を何度もしました。

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その後、無事実習は終わり、成績優秀者ということもあり、進学校(准看を持った准看護師が正看護師になるために2年間行く学校)に面接だけで行けることになりました。

その時長女は3歳半。今このタイミングで次の子ができないとしたら、長女は5歳半になる。年が空きすぎているな。。。と漠然と感じていました。

そして何と面接が終わってしばらくして、後2週間ほどで受験という時に妊娠していることが分かります。辛いつわりが始まり、同級生が必死に勉強している中、家事と育児とつわりとで勉強まではなかなかできませんでした。

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そしてその翌週、父が救急車で運ばれます。学校に入学してから父が入院するのは3回目で、入院の度に不死鳥のように復活する姿を見てきたので、今回もきっと大丈夫だろうと思っていました。

試験まで後1週間。同級生が全員私以外2ヶ所で受験する中、妊婦とは一緒に行けないと断られ、行きたければ自力でいけと言われていたので、他府県の方は私だけ受験しませんでした。

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そして本命の方も一緒には行けない、自力で行け、その日はマラソンがあるから普通には行けないだろう、と言われていました。

母に父のことを伝えていると、母がホテルを予約してくれていました。

最後に手を握り、早く行って早く帰ろう!そう思い特急列車に飛び乗った途端、父の死が姉から告げられました。

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特急なのでかなりしてからUターン出来、私が病院に帰って来た時間が父の死亡時刻になりました。学校で習い、裸で生徒同士清拭をした以外したことのない体拭きを初めて父にすることになりました。

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色んな人に連絡を取り、式のことなどは姉にお願いして、私は翌日の試験を受けに行かせてもらいました。後で後悔することのないように。

父の服を取りに行くなどしていたので、帰ったのは夜遅くでした。

行きのバスの中で勉強するものの、頭が少しついていかず。しかし、無事に試験には合格し、晴れて准看の資格が取れたのでした。

その帰り、父の通夜があり、その夜は姉と式場に泊まりました。そして翌日式がありました。

父にもっともっと生きていて欲しかったけれど、看護学校時代の冬に我が家に同居してもらったり、父に孫が見せれたりなど、少しでも娘らしいことが出来て良かったなと思います。

ただ、時々無性に父に会いたくなります。

本当に素晴らしい父でした。

父の死についての記事はこちらです。

そんな訳でほぼ私と数名ぐらいしか進学しないことを選択するものはいなかったのですが、私は准看の資格を持ち、4月から今の職場で働き始めました。今から7年前のことです。

4月から8月までの4ヶ月間だけ働いて産休に入りました。

どんどん長くなっています。f^_^;

次女を出産後、英語の先生を始めてみる。

コメント

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