子どもが何かをしようとしている時、「危ないからだめ」「汚れるからだめ」と禁止ばかりしたり、「もう少し大人しく」「はやく!」などの言葉を使っていませんか?
モンテッソーリの本に次の記述があります。
子どもは、起きている間中、いっときもじっとせず動き回っています。大人には、”落ち着きがなく、困ったこと”と映ります。しかし、運動の敏感期にいる子どもにとって、「動く」といことは成長の欲求です。自分の身体の各器官を使って、物にさわったり、動かしたりと試行錯誤を繰り返しながら、身体の動きを学習しているのです。
子どもが今していることは大人にとってはただの汚いことのように見えたり、危ないことや、時間の無駄に思えたり、ただの遊びにしか見えない時も多々あります。だけどよーく観察してみると、子どもたちは何かを学ぶ為に動いているように見えてきますよ。そんな時、私はこの子は今〇〇の敏感期中なんだなぁって思います。
女史のいう敏感期は、生物の幼少期には、ある事物に対して特別に敏感になる時期があり、この期間なら苦労せずにある能力を身につけることができるが、この時期を逃すと苦労しても完璧には身につけることができない、とする考え方です。
もくじ
1.生まれて数か月はずっと肌のどこかに触れ合う。
「子育て四訓」
1.乳児はしっかり肌を離すな
2.幼児は肌を離せ手を離すな
3.少年は手を離せ目を離すな
4.青年は目を離せ心を離すな
この言葉、ご存じですか?アメリカインディアンの言葉である、と教えてもらったこの言葉、本当に納得です。
この世に生まれてきた子にとって、お母さんのお腹の中で守られてきたものがなくなり、常に一人になり得る状況です。何も分からない、聞くこと感じることがすべて未知の赤ん坊にとって外の世界はまさにサバイバル状態です。
そんな中、唯一いつもそばにいる存在、それがお母さんではないでしょうか。私は泣こうと泣こうまいと常に抱っこしたりおんぶしたりして肌のどこかに触れるように心がけて子育てをしました。
よく泣いてないし機嫌がいいから、と床に置きっぱなしで放置されているお母さん方を見ます。そしてその子たちがどういう成長を辿るのか、遠くで興味深く見ていると、大抵は手がかからなかった「いい子」の子どもたちが後になってその時に得られなかった安心感、信頼感を取り戻すことが出来ず苦しむ姿を見るように思うのです。お母さん、3歳、4歳と年を重ねてから手のかかる子だなぁって思ってからでは、抱っこだけでは解決しないことの方が多くなり途方に暮れることもあります。それならば、生まれてきてから数か月、常に抱っこしてみましょう。子どもがすごく安定した子になると思います。
2.お母さんはただ笑顔でいる。
子どもにとって、お母さんはこれでもう充分だと思うのです。むしろこうあるべきだと思うのです。子どもがしていることを禁止したり、集中している時に中断するのではなく、子どもたちがしていることを見守り、呼ばれたら笑顔で対応する。それだけでもう充分あなたは素晴らしいお母さんだと思うのです。あれも教えないと、こんな大人にしなくては、とあれこれ考えて不安になる必要はないのです。全ては子どもたちが知っているのです。
3.子どものしたいをとことんさせる。
いつもいつもは無理な話かも知れません。ですがせめて危険でないこと、他人の迷惑にならないことにはとことんさせてあげて欲しいと思うのです。大人から見たらただ遊んでいるように見えるかも知れませんが、子どもたちは何度も何度も繰り返しながら学んでいます。そして自然と注意力と集中力を身につけています。やりたくて集中している時の子どもはとても静かです。(静かだからって安心してたら後で見たらどえらいことになってた!というアレですね。)とことんやった子どもは満足します。そしてそこから得たものを次の自分のやるべき課題を見つけまた新たな挑戦に目を輝かせるのです。
4.子どもが主体的に能動的にする。
何事も自ら「~したい」「~してみよう」「もっと工夫してみよう」と思って行動することが大切です。
誰でも「~しなさい」とさせられるのは嫌なものですが、子どもたちは今後自分で考え、自分で自分の人生を切り開き生きていく必要があります。その為には「~しなさい」と親や先生に言われたことを何の興味も疑問も持たず常に100点を目指すだけの詰め込み式の教育では、大人になった時子どもたちは多いに困ってしまうと思うのです。就職活動をして「皆と同じ」って良いことでしょうか。「自分の意見を持たない」人材にどんな魅力がありますか。
とりあえず目先の学校生活で100点が取れるように…と躍起になってしまうかも知れません。ですが子育てのゴールはそこではありません。それよりも、子どもたちが将来自分たちが居なくなっても自ら困難に立ち向かい、幸せを掴みとる為の力です。
その力は一朝一夕で作れるものではありません。生まれたその日から、私は彼らに自分で選択し、主体的に生きていけるお手伝いをするような関わり方をしています。そのお陰か我が家の子どもたちは皆とても工夫する力があると思います。ないものを一から作り出す能力や、友だちや兄弟と助け合いながら解決していく力など、親が上から言わなくても、子どもたちは自分たちの力でどんどん自分の世界を広げています。
5. 家の中のものがぐちゃぐちゃにされて腹が立つのは、その家は子どもにとっての家ではないから。
「それ触らないで!」「出さないで!」「止めて!」など、言い出したらキリがなくなる家での子どもたちの行動。
しかし、それはあくまでも大人にとって都合のいい家で、子どもたちにとっての家には全くなっていないからその気持ちが次々と出てくるのではないでしょうか。
まずは子どもが触っていい空間を作り、そこに魅力的なレイアウトをしてみましょう。
魅力的、というのも子どもたちにとってです。私は少し古くなった豆を置き、それを注ぐことのできるポットやコップなどを置いたり、手を使うことのできるおもちゃをいくつか並べました。子どもにとって日々の生活というのはとんでもなく魅力的なものです。「ザ・おもちゃ」に興味を示すのは本当に一瞬ではありませんか?親がしていることを自分もしてみたいのです。だから子どもたちは「邪魔してくる」と思える行動をするのではないでしょうか。
6. やりたいと言った時は1歳児でも包丁を持たせる。
子どもたちが「やりたい」ことの一つに包丁を持って切ってみたい、というのがあるのではないでしょうか。
私は子ども用の包丁を置いているので、例え1歳の子が包丁で何か切りたいと言ってきても、包丁で切る機会を遮りません。はじめはバナナなどの柔らかいものから。10個に切ったら7個程は切りながら口の中に入れるので3個程しか残りません。それでも満足した顔で去って行きます。また次に来た時は、10個切ったら3個しか食べず、後は皮もごみ箱へ入れ、切ったものはボールにも入れてくれます。そこにヨーグルトを出してきて入れて混ぜればその日の夜ご飯の一品になります。それを嬉しそうに食べると、その次は、皆にあげるということの喜びを知るのか、何かあってもいつも3人分の用意をしてくれるようになります。「ご飯だよー」というと現在2歳児の息子が颯爽とキッチンにやってきて皆分のお箸を取りに来てくれます。やりたいからやっているのです。なので毎日ではないですが、毎日したくなるような仕組みづくりも子どもは喜んでやってくれる要因になります。
7. 子どもはお仕事が大好き。シール張を作る。
子どもは本当にお仕事が大好きです。こぞってしてくれます。ただ、「~して!」とやるのが当たり前、というスタンスではなかなか子どもたちはしてくれませんし、身につかないと思うのです。それよりも「したい」といかに思わせることが出来るか。私は「~お願いしたいんやけどしてくれる?」とまずは提案してみます。で、してくれる時には、した後嬉しそうにこう言います。
「ありがとう!そしたらシール貼っておいてくれる?」
我が家の冷蔵庫にはそれぞれの名前を書いたシール張が貼ってあります。そして、手伝いをしたら自分でシールを貼るようになっています。そしてそれがある程度いったらお金に換算されて自分の手元に返ってくる仕組みです。でも子どもたちはお金の為というよりも寧ろ、兄弟に負けたくないという気持ちの方が強いです。シールの数を競争しているのです。
そしてシールを貼る場所は2種類あって、一つは自分ひとりでした時に貼る場所、そしてもう一つは兄弟と協力して達成した時の場所です。何よりも大切なことは協力することです。人を出し抜いて自分の利益ばかり考えるような人間は育てたくありません。そこで、協力して達成した時の方がほんのわずかですが値段設定を高くしています。これがお金というのに抵抗があるのであれば、お菓子にするなり何に設定するのでもいいと思うのです。ただ、お金というのは大人の私たちから言えば切っても切れない関係だと思うのです。子どもだからと言ってお金のことを知るべきではないのでしょうか。
長尾義弘さんの本にこのような記述があります。
お金持ちになるには、コツというか「黄金の法則」があります。それは「お金」のことをちょっと考えるだけなのです。たったこれだけで10万円、100万円の差がついてしまうのです。これは本当のことです。
彼の本に世界で3番目のお金持ちといわれるアメリカの投資家、ウォーレン・バフェット氏についての記述があります。 彼は子どもの頃から自分でビジネスチャンスを見つけ稼いでいたそうです。彼のお父さんは証券会社を経営していたこともあり幼い頃からお金のことを考える環境にあり、11歳の時には初めて株を買ったそうです。毎日お金のことを考えるとお金の知識も増え、物の価値についても考えるようになります。その機会を子どもだからと全く与えず、いざドロドロの社会に飛び出て対応できるようになるのでしょうか。小さいうちから自分のしたことに対してお金をもらい、それを使うとお金がなくなる。それを貯めるともう少し価値の高い物が買えるようになる。もっとお金が欲しければもっと頑張ってみよう。と、体感的に分かることというのは実はとても大切なことではないかと思うのです。無償の奉仕、それは確かに大切なことです。だけど、家での用事、手伝いに関してはそのようなシステムを我が家に取り入れています。
6. 子育ての最終目標は両親がいなくても、自分で考え、自分で決め、社会と関わりあいながら生活できること。
このことを考えながら子育てをしています。大人になった私たちが子どもたちに出来ること。それは思いっきり自分を生き抜く我が子の姿を見守ることしか出来ない。
もしも小さい頃から子どもの為にと子どもの未来を何もかも決めてしまったとして、それが子どもの中で挫折したり、全くやりたくないものであった場合、どうなるでしょうか。もしも私が子どもなら、私は親を怨むでしょう。そしてそこから物凄く苦労して自分自身を取り戻すしかないのです。
しかそれらが全て自分が決めたことであるのであれば怨む人は誰も居ません。自分自身を呪うしかありません。そしてそんな回り道もすべて合わせて自分の血となり肉となり、いつか役に立つことを知り、さらに自分の自信や力になるのではないかと思います。
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